李氏朝鮮前期
李氏朝鮮はその建国の由来からして、慕華崇明の念を強く持つものであった。高麗の一武官であった李成桂は、明の遼東半島攻略を命じられるが、親明事大を標榜し軍を翻して政権を掌握し(威化島回軍)李朝を建国する。また、元の年号、風俗を廃止して明のそれに換え、文化面においても積極的に中華文明を取り入れていった。
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李朝前期の小中華思想では、高麗期と同様、文化的には中華に次するもしくは並ぶとされていたが、歴史の長さや儒教の伝統でも中華に張り合おうとする主張が見られるなど、朝鮮の文化的優秀性は既に中華王朝と等しいと自己を評価していた。その一方、政治的には明に事大し臣下の礼を尽くすことになる。これは建国時の親明事大政策に併せて、朝鮮性理学の確立により朱子学が朝鮮社会の支配理念になったことにも影響されている。つまり朱子学の大義名文論を受け、明と李朝の関係を明確に君臣関係と位置づけ「今夫以小事大、君臣之分己定、則不度時之難易、不催勢之利害、務盡其誠而己」(事大は君臣の分、難易利害に関わらず誠を尽くすのみ)と、外交上の一手段であったはずの事大政策それそのものが目的に昇華されることになる。こうした結果、李朝では通常の冊封国よりも強く明を奉ることになり、例え犯罪者であっても明人であれば勝手に処刑できず、丁重に明へ輸送する慣わしになっていた。そのため、後期倭寇と対峙した武官は、戦闘中に倭人、明人の判別をつけ、明人を生け捕りにするという難題を強いられ、誤って明人倭寇を殺害した武官が処罰を受けることすらあった[4]。これは当時の明が、海禁政策を破って海外渡航した者を自国民と認めない棄民政策を採っていたことを考えると、李朝の明を上国と崇める崇明の念の強さが伺い知れる。